
Robert Polidori
カタダ人のフォトグラファー、Robert Polidoriを知ったのは何年か前に、本屋で平積みされていたチェルノブイリの写真集でだった。ただ恥ずかしながらPripyat and Chernobylというタイトルとチェルノブイリが結びつかず、最初にパラパラと眺めていた時はなんてすさまじい廃墟の写真集なんだろうと思っていたくらいだった。
ところが眺めていくうちに、いわゆる廃墟写真とはまた違った、なんとも凍てついたような時間を感じているときに、チェルノブイリという単語が飛び込んで来たのだった。なんだか身体が拒絶するような行っては行けない場所という気がした。
これとは別に出ている、キューバの写真集Havanaは、同じく崩れかけた建物なんかが写っているけれど、こちらは明るい人間臭さの出ているもので、キューバに行ってみたいと思わせるものだった。
僕もゴーストタウンなんかを巡ったりするのは好きなのだけれど、なぜそういった廃墟に惹かれてしまうのだろうかと思う。おそらくは祇園精舎の鐘の音ではないけれど、栄枯盛衰というか、ものの哀れを感じ取ってしまうからかもしれない。
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それはもしかしたら過去生になにかあるのかもしれないよ。
私は戦争の話や映像に対してものすごい拒絶反応を起こす。
最近に始まった話じゃなくて、小学生のころからなんだ。
戦争のない世界の話を他人に力説していると涙が止まらなくなる。
これも不思議。心底戦争をなくしたいと願っている自分に気づく。
生きてる”自分”は”自分”だけかもしれないけど、
生きてきた自分(前世)は数にしたら果てしない気がする。
だから今世でできる限りのカルマを浄化させなきゃ。
あ、別に宗教的なことじゃないから安心して。w
いや、別に宗教的=ダメとは思ってないけどね。
戦争が無くなって欲しいというのは普通の人なら誰でも考えることだと思う。
前にも話したかも知れないのだけれど、戦争反対という時、これは戦争という行為そのものを非難している訳だけれど、そこにはどこか、どちらも悪いというケンカ両成敗のようなニュアンスを含んでいると思う。
でも事を一般の家庭に置き換えて考えると・・・
武装した強盗が家に侵入してきたので、家族を守るためにお父さんが武器をもって応戦。
これは盗賊が悪であって、お父さんは正当防衛だけれど、この盗賊とお父さんの戦いをして、戦争反対でどっちも悪いと言われるとちょっと違う。ここはやはり泥棒反対もしくは侵略反対というところでしょう。
もちろん国家間の戦争はこんなに単純ではないだろうし、戦争をしている当事者同士たちは自分たちが正しいと信じていて、しかも国家の戦争って結局はなにがしかの利権を獲得するためだろうし、また憎しみが憎しみを生む連鎖のなかでは、いつまで経っても終わらないのかもしれません。
でもロシアの映画監督、故アンドレイ・タルコフスキーが「映像のポエジア」という著作の最後に書いた言葉を僕は信じている。
「最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう。実際人類は芸術的イメージ以外はなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。」
私欲のないアートの創造。これこそが魂の求めるものではないかと思っているのです。
まだまだ欲望だらけだけどね。
戦争で得るものはある。
なぜなら戦争がヒトにものすごいインパクトを与えているのは事実だから。
そこに基づけば、無駄なことは何一つないってこと。それは否めない。
今世界に、ヒトリヒトリに最も必要なのは無償の愛!!
それも否めないでしょ。